オフィスサージョンからの提案

2005年5月号 【第1回 鼠径(そけい)ヘルニア】

ある土曜日の朝、82歳の男性が待合室にぼつんと座っていた。診察時間の前だったが、早速、中に案内した。その男性は、「朝一便の飛行機で新潟県から来た。今日鼠径ヘルニアの日帰り手術を受けて、夕方の便で新潟に帰りたい」と一気に言った。新潟県から事前の連絡なしに、いきなり札幌に来たのだ。
普通は、初診時に病状を聞き、術前検査をして、改めて手術日を決めている。当たり前の手順だが、その男性は今日どうしても手術をしてほしいと引かない。
その男性は大きな鼠径ヘルニアであったが、特別な既往歴がなかった。また、その日手術が一件キャンセルとなっていたため、至急で術前検査を行い、手術をすることにした。ただし、例外的なケースなので、その日は札幌に宿泊してもらうことにした。男性は、「経過がいいので夕方の便で帰りたい」と言ったが、磯内で何かあったらと話し、了解してもらった。
私は、その男性から二つの点で感謝された。一つは、突然来たにも関わらず手術を受けられて、術後経過も良かったこと。もう一つは、当院で手配したホテルが、その日シングルルームが満室だったため、男性はシングル料金で豪華なスイートルームに宿泊できたことであった。
手術翌日、男性は新潟県に無事帰ったが、どうも家族に内緒で札幌に来たようである。
鼠径ヘルニアが“脱腸”と言われ、まだまだ人に知られたくない病気であることを改めて痛感した。

2005年6月号 【第2回 鼠径(そけい)ヘルニア2】

ラトコー氏と笑顔で握手を交わした男性は、午前中に手術を受けたことを全く感じさせない力強い足取りで、元気に帰宅した。私が見たヘルニアセンターの光景だ。1999年夏、総合病院に勤めていた私は、夏休みを利用して米国のニュージャージー州に行った。目的は鼠径ヘルニア手術で有名なラトコー氏に会い、彼の施設ヘルニアセンターを見学することだ。外科医8年目の私は、鼠径ヘルニア手術に興味を持ち、論文の中で彼を知った。彼は、考案したメッシュ・プラグ法という新しい鼠径ヘルニア修復術を6年間で2400例以上行い、従来の方法に比べて再発率が極めて低く、すべて日帰り手術、手術時間30分以内、術後4時間以内に退院と報告した。当時の私には、驚愕の数字であった。
私が勤務していた総合病院では、鼠径ヘルニア手術が年間80例、手術時間60分以上、入院期間1週間以上。ヘルニア専門医と一般外科医の差とは言え、何故こんなに違うのか?
ヘルニアセンターは、複数のクリニックが入居するメディカルビルの1階にある小さな施設だが、診察室、手術室、回復室が効率よく配置され、午前中に2例の鼠径ヘルニア手術が流れるように行われていた。麻酔方法、手術の手順、すべてが今まで上司に教わった方法と違っていた。日本は、日帰り手術の分野で世界から明らかに遅れている。そのことを多くの外科医は知らない。私はこの分野でがんばろうと決めた。

2005年7月号 【第3回 「日帰り麻酔」】

ほとんどの人は、歯の治療のときに、局所麻酔をされた経験があると思う。このとき、痛くないのに、歯を削る不快な音や医師の指が口の中に入っているという感覚から、手に脂汗をかいたり、心臓がどきどきした経験はないだろうか。専門用語では、痛みをとることを「鎮痛」、緊張を取り除き気持ちを静めることを「鎮静」と言い、この二つが十分に得られた状態がいい麻酔である。歯医者での経験は鎮静のない鎮痛状態であり、これが外科手術ならば、決していい麻酔とは言えない。
他の病院で一週間の入院が必要と言われている手術を、日帰り手術で行うにはどうしたらいいか?手術時間が短いことはもちろんだが、来院して30分以内に手術が始まり、術後3時間後には麻酔が覚めて歩行が出来なくてはその日のうちに帰ることは無理である。日帰り手術の麻酔では、手術中に十分な鎮痛と鎮静が得られ、かつ術後すぐに麻酔が覚めるような調節性のいい麻酔が要求される。ここに日帰り麻酔のテクニックがある。
麻酔の種類には、局所麻酔、硬膜外麻酔、吸入麻酔、静脈麻酔などがあるが、これらを少量ずつ組み合わせて使うことにより、調節性のいい安全な麻酔が可能となる。「バランス麻酔」という新しい考え方の麻酔である。
手術を終えて帰宅する患者に、「先生、全然痛くなかったよ、気持ちよかったからもう一回手術してもいいよ」と言われたとき、いい麻酔ができたと密かに心の中で思うのである。

2005年8月号 【第4回 日帰り手術と医療費】

今回は、少し細かい数字の話をしようと思う。入院して手術を受ける場合、その医療費は入院費と手術費の合計額から3割分(69歳以下)または1割分(70 歳以上)を病院窓口で支払う。急性期病院では、入院料が1万8千円、食事料が2千円で、合わせた入院費は1日約2万円、例えば一週間で入院費は14万円か かり、3割負担で4万2千円、1割負担で1万4千円になる。入院している間はもちろんお酒もピールも飲めない。
一方、当院には、東京や大阪、福岡などから日帰り手術を受けにくる人がたくさんいる。時期にもよるが、札幌駅周辺のホテルであれば、2泊3日のツアー料 金は3万5千円程度である。当院は入院設備がないので、入院費はもちろんゼロ。鼠径ヘルニア日帰り手術では、3割負担で約5万円、1割負担で約1万8千円 であり、純粋に手術費のみである。
開業する前、多くの先輩に「入院設備がないのに手術をするなんて無謀だ、失敗するぞ」と言われた。しかし、現在までに850例の日帰り手術を行い、術後 に入院が必要だったのは1人のみである。本州から来た患者は、手術当日から北海道のおいしい海の幸を食べ、お酒を飲み、ホテルライフを楽しんで帰る。この 人達にとっては、手術費と宿泊・交通費をすべて合わせても、地元の病院で一週間入院して手術を受けるよりはるかに費用が安いのである。日帰り手術の滴足度 は極めて高い。

2005年9月号 【第5回 専門医とは?】

「消化器外科専門医」、私が持っている一般に広告することが許可された学会認定の資格である。今、この専門医が本当にその道の専門なのかが世間を騒がせて いる。一般市民が考える「~専門医」とは、数々の修羅場を経験し、どんな困難な手術であっても難なくこなすプロの外科医を想像するであろう。この先生に任 せておけば絶対に大丈夫、なぜならこの先生は「~専門医」なのだから。ところが、この専門医とは、実は手術経験が豊富でなくとも、経験年数7~10年で取 得可能なのだ。学会の立場で言うならば、あなたは「~専門医」として認定しますから、今後しっかりとがんばりなさいよと言うようなものだ。自分のことを言 えば、消化器外科専門医を取得した時点での執刀経験は、胃切除70例、大腸切除70例、肝切除3例、膵切除6例、食道1例などである。難易度が高いとされ る肝臓や食道の手術は数例しかしていない。もしも私が、「明日から君がすベての食道手術をやりなさい」と上司から言われたら、果たしてできるだろうか?東 京医大の心臓手術でなくなられた4人の患者はもちろん被害者だが、執刀医の心臓外科医も実力が伴わないのに責任ある立場に立たされた被害者と言うこともで きる。
一方、私は鼠径ヘルニアや下肢静脈瘤などの日帰り手術を年間300例以上こなし、これは日本に数人しかいない。本当は日帰り手術専門医と言いたいが、そんな専門医は学会が認めていない。専門医とは何だ?

2005年10月号 【第6回 北海道の医療費、なぜ高い?】

郵政民営化に対する国民の判断が、今回の衆議院選挙で問われた。たぶん、この原稿が掲載される頃には、その答えが出ているであろう。小泉首相は郵政民営化を突破口に、次には高騰する国民医療費を削減するための医療制度改革をすると思う。
日本医師会は断固反対しているが、小泉構造改革が続く限りこの流れは変えられない。混合診療も段階的に解禁となるであろう。私は日本医師会員ではないし、無駄な医療費を削減することには大いに賛成である。
先日、新聞紙上で、北海道の老人医療費は全国に比べて極めて高く、適正化への取り組みが急務と書かれていた。理由として、病院が多く入院期間が長いこ と、積雪があり冬が厳しいことなどだ。つまり、必要のない病床が多く、だらだらと長い無駄な入院が多いということである。素直に考えよう。ある病気で手術 のために入院したとき、入院期間が長いということは必要のない検査や処置が多く、術後経過に問題があるということで、強いて言えば医療レベルが低いという ことである。
駒大苫小牧高校が夏の甲子園で二連覇を達成した。雪国のハンディを理由に、野球が弱いという言い訳はもう通用しない。医療界も言い訳ができない時期に来 ていると思う。いい手術をすれば、入院期間は短くなり、医療費は削減されるのだ。北海道の医療費が全国平均に比べて低くなる努力が必要だ。そのことを二連 覇の偉業を達成した香田監督に学ぼうではないか。

2005年11月号 【第7回 良性疾患の手術適応】

悪性である大腸癌が見つかった。早期の癌であれば内視鏡でとれるかもしれない。進行した癌であれば開腹手術をするであろう。いずれにしても、癌の手術はで きるだけ早くすることだ。では、良性の病気である鼠径ヘルニアは?診断されたらすぐに手術が必要であろうか?答えはノーだ。良性の病気こそ、手術の適応が 難しい。
総合病院で鼠径ヘルニアと診断された人が、セカンドオピニオンを求めて当院に来た。「痛みがなければ手術はいつでもいいですよ。もう少し大きくなってか らでも、十分日帰り手術はできます。急ぐことはありません」と私は言った。鼠径ヘルニアの患者に、いつもそのように説明している。その人は「本当ですか? 前の病院では今のうちに手術をしないと大変なことになる。命に関わるかもしれないと言われた」と説明した。ごく稀にそういうこともあるが、その確率は〇・ 一%以下である。
その人の鼠径ヘルニアはそんな状態ではない。必要以上に患者の不安を煽ってはいけないと思った。
鼠径ヘルニアの症状には、突出、便秘、痛みなどがある。良性の病気では、症状を改善したいなら手術をしたほうがいいし、まだ気にならないようなら手術を しなくてもいいのだ。決めるのは患者本人である。私の説明で安心したその人は、数ケ月に一度受診しているが、まだ手術はしていない。一年以上経つが症状は 軽く、もちろん大変なことにもなっていない。

2005年12月号 【第8回 手術のトレーニング】

最近、鼠径ヘルニア手術のトレーニング模型を購入した。九万円もする高い買い物だった。これは、実際に切って解剖を習得しながら模擬手術を体験できる外科研修用の模型である。
当院には、鼠径ヘルニア手術をきちんと学びたい外科医が手術のトレーニングを目的にやって来る。トレーニングでは、実際に手術助手になってもらい、一つ一つの解剖や手術のポイントを解説しながら進めていく。
術前に手術のイメージを素早くつかんでもらうには、模型を使って説明するのが有効だ。もちろん、すべての手術、麻酔は私が行うが、模型でのシミュレー ションとそれに続く手術助手のトレーニングは結構評判がいい。今までに百人を超える外科医のトレーニングを行い、そのうち四割は本州からのベテラン外科医 である。中には、外科医の他に看護スタッフを数名連れてくる病院もある。この場合には、手術手技に加えて、どのようなシステムで日帰り手術を行っているの かを見たいのである。目上の外科医に対するトレーニングでは、ある種の他流試合を申し込まれたような、程よい緊張感がある。
夜は時間が許せば、見学に来た外科医とススキノに出る。お酒を飲みながら、手術が難しかった症例などを語り合い、各地の外科医と交流が深まり自分の世界 が広がった。いろいろなリスクを背負っての開業であったが、一歩前に踏み出して本当に良かった。トレーニング模型なんて安い買い物だ。

2006年1月号 【第9回 下肢静脈瘤の日帰り手術】

下肢静脈瘤は、三十歳以上の女性に多く、立つと脚の表面に血管のこぶが目立ち、夕方になるとむくみやだるさを伴い、立ち仕事をする男性にも起こる。
原因は、脚から心臓に戻るベき血液が、脚の付け根や膝の裏で逆流し、脚の表面の血管に貯まってしまうことである。
治療には、脚の表面の血管を押さえる方法(弾性ストッキング)、血管の根本をしばって逆流を止める方法(結紮術)、血管の中に薬を入れて固める方法(硬 化療法)、そして血管を抜き取る方法(静脈抜去術)の四つがある。その中で、最も治療効果の高いのが静脈抜去術である。一般病院では、静脈抜去術の入院期 間は三から十日程度である。
前置きが長くなったが、私はこの手術を日帰り手術で行っている。開業当初から、下肢静脈瘤の日帰り手術を望む患者さんは多かった。また、鼠径ヘルニアで 行う硬膜外麻酔が、以外にも脚の付け根から足首まで効いていることに気がづき、抜去も可能と考えた。結果は患者は痛がらずに帰宅でき、術後経過も大変良 かった。
静脈抜去術は血管外科医の手術であるが、日帰りができる施設はごくわずかだ。私は一般外科医として、開業後一七〇例の日帰り静脈抜去術を行い、今は得意 な手術の一つである。鼠径ヘルニアから始めた日帰り手術だが、どの病気まで日帰り手術でできるのか?私はいつも寝る前に考えている。次回は痔核の日帰り手 術の話をしよう。

2006年2月号 【第10回 痔核の日帰り手術】

痔核とは、肛門から粘膜が飛び出し、痛みや出血を伴う疾患である。程度の差はあるにせよ、男女を問わず多くの人が一度は経験したことがあると思う。九割は 軟膏などの保存療法で軽快するが、一割は手術となる。痔核手術の最大の難点は、排便という生理現象があるため、手術の傷を安静に保てないことだ。つまり、 便が傷を通過するということがどうしても避けられないので、術後排便時の痛みが数日間はかなり強いのだ。ということで、痔核手術も一般的には入院・手術で ある。
当院では、術後の痛みをとるさまざまな工夫をして日帰り手術としているが、術前説明では「術後最初の排便のときには、かなり痛いですよ」と説明してい る。入院・手術の方がいいと考えた人は入院設備のある他の病院に行くし、多少痛くとも日帰り手術で済ませたいと思う人は当院で手術を受ける。決めるのは患 者本人である。当院ではまだ行っていないが、最近では痔核を切り取らずに局所注射で治す方法もあり、手術が絶対的な治療方法ではない。治療方法は日進月歩 である。
札幌駅のオフィスビルにある当院では、手術を終えて一歩外に出てしまえば、駅の雑踏に飲み込まれてしまう。手術を受けたことを人に知られることはない。 このことが理由かどうかはわからないが、当院で痔核手術を受ける人は三十から四十歳代の女性が圧倒的に多い。やはり、女性は痛みに強く、痔核があるなんて 人に知られたくないのだ。

2006年2月号 【第11回 日帰り手術、ちょっといい話】

私の連載も残すところあと二回となった。今回は千例を超える日帰り手術の中から、心温まるちょっといい話を紹介しよう。
六十歳代の熟年夫婦が一緒に当院を受診した。夫は鼠径ヘルニア、妻は下肢静脈瘤であった。相談した結果、夫婦で同じ日に日帰り手術をすることにした。回 復室のベッドは二つあり、いつもはプライバシー配慮のためカーテンで仕切っているがその日は仕切を取っていつもよりベッドの間隔を近づけた。中から、仲む つまじい会話が聞こえてくる。スタッフはできるだけ入らないようにした。夕方五時、熟年夫婦は仲良く帰宅した。
釧路在住の三十歳代の男性は、休暇を利用した毎月一回の札幌の彼女とのデートを楽しみにしていた。その彼が、鼠径ヘルニアで日帰り手術を受けた。その日 を逃せば、彼女と二力月間会えない。彼は、「四時に彼女と待ち合わせなので、三時までに帰れますか?」と言った。彼にとっては、手術もデートも両方大事な のだ。術後、要望通り午後三時に帰宅となった。帰り際、私は「激しい運動はしないでね」と彼に忠告した。私の忠告を守ったかどうかは不明だが、術後経過は 良く、彼女ともうまくいつている。
鼠径ヘルニア、下肢静脈瘤、痔核、この三つが、当院でできる日帰り手術の三大疾患である。今まで四人の方が、このうち二つの日帰り手術を受けている。「もし三つの手術すべてを受けたら、三つ目は無料にしよう」、私がいつも言っている冗談だ。

2006年2月号 【第12回(最終回) 外科医という仕事】

朝9時、手術を受ける患者が来院する。笑顔で挨拶し、患者の顔色、状態をチェックする。9時30分、手術室に入室。何気ない会話をしながら、手術台に上がった患者に麻酔を行う。しばらく、血庄、脈拍、呼吸状態を静観し、落ち着いたら手洗いを 念入りに行う。滅菌したガウン、手袋を装着して、手術部位を消毒する。患者に減菌シートをかけて手術部位のみ露出し、さらにフィルムを貼る。ここまで約 20分。9時50分手術開始。患部をメスで切る。出血するが、すぐにはふき取らない。酸素が十分に取り込まれているかを血の色で確認する。時折、モニター や寝ている患者の顔色を見ながら、注意深く手術を進めていく。10時30分、約40分で手術終了。次の患者は11時に手術開始である。また、同じように手 術を行う。午後からは外来患者を診察しながら、手術を受けた二人の術後経過にも気を配る。夕方5時、傷や全身状態を確認し二人とも帰宅となる。毎日、これ を繰り返している。
日帰り手術では、すべての操作を確実かつ素早く行わなければならない。時間をかけてはだめだ。麻酔も手術時にはよく効き、術後すぐに覚めなければならない。なぜなら、患者はその日のうちに歩いて帰るのだ。家に帰ってからも、トラブルがあってはならない。
いい手術をすれば、入院の必要はない。入院自体が無駄である。いい手術が出来なくなったら、そのとき私は外科医をやめよう。それが患者のためだ。